本日でこのブログを始めてまる19年になります。この間に、舅、父、姑を見送りました。母を送るに際し、この経験が大いに生かされたように思います。
「八事日赤」では、当たり前ですが、見舞いの時間と人数が制限されています。ただ、母のような容体の患者には無制限で面会が許されました。実家から「八事日赤」へは車で15分くらいです。「国道153号バイパス」は、私が免許を取得したころに工事の始まった馴染みの道路です。午前中に母を見舞い、懐かしいエリアをとりとめもなくドライブして実家へ戻る、ということを3日ほど続けました。母がかつて勤めていた「ユーストア」は現在の「ピアゴ平針」です。ふらりと訪ねると、書籍売り場に「白ゆり家計簿」が置いてありました。例年この時期に母に贈っていたものです。母が回復する見込みはないと思いつつ、来年の家計簿を買い求めました。
火曜日の夜、実家で一人夕食をとった後の時間でした。弟から「日赤の看護師さんから来てほしい」旨の連絡があったと電話がありました。いつそうなってもいいように心構えていたはずですが、とっさにスマホの充電器を持って出ることを忘れました。運転しながら「充電器を忘れたな」とは思ったのですが、そういった類のものは病院の売店で手に入ることもリサーチ済みでした。
母は病室で、救急車に乗せられた時から変わらず眠っているようでした。救急車で運ばれた夜は、HCUのベッドの傍らで夜を過ごしましたが、この日は看護師さんから「家族控室をお使いください」と言われました。ソファとテレビがある和室です。4夜ここで過ごしましたが、4日目の深夜「他のご家族もお使いになります」と言われて、母の病室(個室)に移りました。
土曜日になって弟が豊橋から駆けつけ、私は一度実家に戻りました。4日ぶりに入浴して熟睡し、日曜の朝、「また1週間家族控室かな」と思いながら車を走らせていました。
病室に着くと看護師さんが、「昨夜から熱があって、今39度ある」と告げられました。「ご家族を呼んでください」とも言われました。母につながっているモニターの波形が、ドラマで見るように不安定です。午後1時過ぎ、母の呼吸が途絶えました。(続く)
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