2011年08月28日

表現するということ

先日「無言館」という映画の試写会に言ってきました。無言館へはもう10年ほど前ですが1度行ったことがあります。昨年第2展示室ができて、ぜひもう1度行きたいものだ、しかも今年は2度も信州へ行っているんですが、なかなか交通アクセスを考えると上田まで行くことができません。これはいい機会だと思って、名古屋にある新婦人の県事務所まで行って来ました。
映画の終盤で、館長である窪島誠一郎さんの長い独白があるんですが、その中に「文学や音楽では、怒りや憎しみや、その他人の汚い部分も表現するが、絵というものは愛した物しか描くことができない」というくだりがあって、映画の流れとしてはとても良いまとめ方になっていたし、私もそれなりに理解できたんですが、分野は違えど、私も表現者ですから「ちょっと違うんじゃないかな」という気持ちが残りました。
叔父・神田日勝は、生ごみを好んで描いた画家です。そのリアルな生ごみを叔父は愛していただろうか。ピカソのゲルニカも戦争のむごさを描いた作品として評価されています。それも愛していたから描いたと言えるのだろうか。そんな疑問が残りました。
一方、指摘されたとおり文学、私の場合は連句ですが、世の中のあらゆることを詠みあげます。先日行われた百韻の会では、かなりきわどい句をいくつか混ぜてあります。百韻だからできることではありますが、こうした句を採用された藍先生のふところの深さを改めて思ったものです。
表現の自由は、まず「不健全である」という攻撃を受けて始まります。子どもにとってよくないからポルノは規制しよう。こう言うとたいがいの良心的な大人はその通りだと思ってしまうんですが、それが実は大変危険な動きであることはあまり考慮されません。
「危険なメディア」として攻撃を受け続けてきた赤旗は、大変健全な紙面ではありますが、党本部の資料室には各種週刊誌なども保管されています。
性教育なども攻撃の対象になりやすいですが、「健全」であることが昔からの価値観にとらわれていることのうらがえしでもあり、私が足助で生きながらえているのも、かつては理想的な「ヨメ」であったことに起因します。今人生の折り返し点にさしかかり、今後は表現者として生きていくことを決意した身にもはや「ヨメ」という仮面は必要ありません。夫は理解してくれていますが、おばあさんには「困ったヨメになったものだ」と思われても、もはや私の関知するところではないです。
posted by nora_asuke at 06:13| Comment(0) | #俳句、川柳
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