2021年06月01日

稲の旋律

民主文学同盟の若手として期待を集めていた旭爪あかねさんが亡くなったのは昨年11月でした。遺稿となったエッセイが赤旗に掲載され、「民主文学」誌上に再録され、いや、これはちゃんと読んでおかねば、と図書館に予約をいれ「世界の色をつかまえに」と「稲の旋律」を読み終えました。図書館になかった本も取り寄せて「歩き直してきた道」も読みました。あと2冊、買って手元にある本があります。
「稲の旋律」は映画にもなって、上映されたものを見た記憶があるのですが、冒頭手紙をペットボトルに入れるシーンを見て、「ペットボトルなんてそもそもエコじゃないじゃん」と見る意欲を失いました。今回旭爪さんの著作を読んで、旭爪さん自身はもとから社会的な活動に積極的だったわけではなく、小説を書き上げてしまった責任上表舞台に顔をさらす羽目になった経緯が読み取れました。
この辺が「小説家」であった旭爪さんと「活動家がモノを書く」私の決定的な差のようです。旭爪さんが愛読した児童文学の多くは私も同じく感銘を受けた作品群で、ご存命であればいつか親しくお話しできる日もあったろうかと残念な気持ちを抱きました。
さらに、鬱病に苦しんだ日々は同病相憐れむという言葉では言い尽くせない感情に襲われました。旭爪さんは、名声を確立したがために逃げ場所を失ったようです。それも「民主文学」という「世の中をよくする人のための文学」を背負った故に弱音を吐く場所を失ったように思います。
農業を巡る課題は複雑で、「ヨメ」として虐げられてきたはずのおばあさんが自分が「姑」になったとたん「息子の連れ合い」を「ヨメ」扱いするという、ジェンダー的逆発展法則があり、若い世代の主張が通りにくい現実もあります。
また、不登校の子どもを「農村留学」させて過疎に悩む僻地の児童を増やすなんて取り組みもありましたが、親元を離れる子どもの気持ちも一筋縄ではありません。
まあ、一時増えた「海外からヨメをもらう」取り組みがいつからか下火になったのは歓迎しますが、すでに日本に嫁いできたママさんたちがこのまま日本で高齢期を迎える時期になっていることも気がかりです。
2001年に書かれた「稲の旋律」の提起した課題は、確かにコロナパンデミックに対する予言的課題であったと思いました。
posted by nora_asuke at 14:21| Comment(0) | #読書