子どもが生まれて、言葉がわかるようになった頃、日本の昔話のスタンダードくらいは本に頼らずとも、口伝で話してやれるようになりたいと、紙芝居で練習したことがあります。おかげで、もも太郎を始め、いくつかの昔話はそらで言えることができます。
ところが、娘はまだしも、息子の方は「お話してあげよう」と水を向けると「いい」と断られました。え?子どもって、お話好きじゃなかったっけ?それとも、私の思い込み?若い母親はうろたえました。
しかし、馬を水飲み場まで連れて行くことはできても、水を飲むかどうかは馬次第、という例もあります。息子はきっと、お話の好きじゃない子どもなのだと、強要することなく育てました。果たしてそれが正解だったのか。
一方、大方の親御さんが悩みの種だったであろう、コンピューターゲームについては、同じく言葉がわかるようになった頃から「うちはね、ファミコンと言う物は買わないからね」と、一方的に禁止措置を出していました。それに対して息子は、小学校の2年生の時に、もらったお年玉で自分でゲームボーイを購入し、ポケモン道を歩み始めました。弟がゲームボーイを手にしたのを見て、娘も同様にゲームボーイとポケモンの道を歩みました。
といういきさつで、ブラウン管でのコンピューターゲームは導入しなかったものの、わが子たちはよそのお子様とそれほど違わないゲーマーです。
さて、「お話いらない。ゲームは自分で買う」と言った息子は今、感情表現がとても苦手な青年になりました。今どきには珍しくない「おたく」という感じです。
私が子どもの頃は「テレビばかり見てると馬鹿になる」と言われて育ったものですが、それは当っていないように思います。しかし、昔話よりゲームを好む子どもたちが将来を担うのは、ちょっと危険なような気がしています。